「『兜太、俳句なんてやるんじゃないよ。』というおふくろのいいつけを守らずつくり続けて、もう七○年ですよ」
カッカッと豪快に笑う兜太さんはいま、現代俳句協会名誉会長、俳誌「海程」主宰、朝日俳壇選者、NHKの俳句番組への出演、講演・講座などに多忙な日々を送っておられる。
インタビュー当日も、夕方まで朝日新聞社で他の選者とともに約六○○○の投句すべてに目を通し、秀句を選び評を書いてから駆けつけてくださった。
著書に『流れゆくものの俳諧—一茶から山頭火』という作品がありますが、それを拝見すると、漂泊者というか、無頼派のような俳人がお好きなのかな、という気がしますが……。
金子さん:「好きな俳人はやっぱり一茶かな。一茶にはいろいろ教えられます。一般性と一流性、非常に平易でわかりやすいが文芸としても一流の芸術品です。近代では正岡子規、中村草田男、ぼくの先生の加藤楸邨が好きですね。種田山頭火や尾崎放哉はね、あの生き方が好きなんだ。作品はそれほどでもないかな(笑)」
芥子さげて喧嘩の中を通りけり一茶
形代[に虱[おぶせて流しけり一茶
一茶の句には好きなものが多いが、この二句も気に入っている。「芥子さげて」の句に、兜太さんは「粋でしょう?」と同意を求める笑顔になった。「粋」が好き、「無粋」は嫌い、と好みがはっきりしている。
「形代に」の句には、病む少女が自分の衣類にたかったコロモジラミを形代にのせて流し、病気平癒を願っている可憐な姿が目に浮かぶそうだ。この句に出てくるシラミに不潔感や嫌悪感は感じられない。むしろ光景を思い浮かべて親近感さえ感じてしまう。嫌われもののはずのシラミやハエをやさしいまなざしでじっくり観察し、むしろ親しい存在として俳句のなかに取り込んでしまう一茶に、兜太さんは敬服する。先入観なしに対象物にじかに触れてつかまえる日本語、確かな具体感を持つ言葉は美しいということを、一茶の俳句から学んだと兜太さんはいう。
知る人ぞ知る存在だが、竹下しづの女も兜太さんの心に残る俳人である。
金子さん:「旧制高校のころ、竹下しづの女の『女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く』という句に出合ったときは、驚いたな。男尊女卑の時代に昂然と『女人高邁』と言い切る潔さというかかっこよさに衝撃を受けました。彼女とは面識はなかったんだけれど、好きな句がいくつもありますね。気骨のある女性だったと思います。学生俳句連盟機関誌『成層圏』でお世話になりました」
「土」からいのちを汲み上げ、「土」に根を張る
今秋のお彼岸のころに八六歳の誕生日を迎える兜太さんだが、作句は相変わらずみずみずしく〈いのち〉がみなぎっている。
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
よく眠る夢の枯野が青むまで
「青鮫」は好きな言葉。彼らのぷりぷりした体や泳ぎ方に、春が来てよみがえるいのちを感じるという。まだ明けやらぬ庭に梅が咲き、草や木々にいのちの息吹を感じる。それはまるで大群の青鮫のようだ。「来ている」という表現には漁師が魚群の到来を待ち受けているような、緊張感と躍動感がただよう。我孫子市(千葉県)真栄寺の鐘楼のそばにこの句碑があり、豪放磊落な住職は、時折碑のなかの「青鮫」と遊んでいるそうだ。
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永平町・四季の森文化館前に
建立された句碑。 |
金子さん:「『よく眠る』の句は、つくった後で、芭蕉の向こうを張ったねといわれて気がついたんだけれども、臨終に近い芭蕉の『枯野』は、ついに青むことがなかったが、こちらは、春だぞ、草萌えだぞ、青みを帯びてきたぞと、いのちのよみがえりを感じてるんだね」
この句は、昨秋、永平寺町(福井県)四季の森文化館前に立てられた句碑に刻まれている。
金子兜太さんは、俳句は日本語の「土」の役割をしているという。日本語としてある程度使いなじんだ言葉なら、日本人の体にしみ込んでいるので最短定型になじむ、つまり、「土」に根を張ることができる。
句作を始めた一○代のころから土の香りをただよわせていた「秩父の子」は、七○年に及ぶ俳人生活にしていまなお意気軒昂、矍鑠として東奔西走する。その足取りは軽やかで、「ぼくは背中を丸めないように気をつけてるんだ」という言葉どおり、背筋も伸びている。
金子さん:「ぼくは民謡が好きなんだけれど、民謡もほら、五七調というか七五調の定型でしょう? 民謡のリズムは日本人に合うんだよね。俳句も、そうです。このリズム感は日本人の肉体にしみ込んでいるから、子供にだって受け入れられる」
俳句があるかぎり日本語は健在だという兜太さんは、長年日本の大地で耕し続けた俳句文化を、中国の大地に鍬入れするために旅立つ。海の向こうの大陸で、漢俳はどのように根を張るのだろうか?
金子兜太プロフィール
1919年埼玉県生まれ。東京帝大経済学部を卒業後、日本銀行に入行。三日後に海軍に入隊、トラック島にて終戦を迎える。復員後、日銀に再入行し、福島・神戸・長崎などで勤務。神戸支店時代に第一句集「少年」上梓。以後、「前衛俳句の旗手」として活躍。
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