やなせさんが、丸い顔に丸い鼻、茶色のマントで空を飛ぶユーモラスなヒーロー「アンパンマン」を世に送り出してか
ら、もう30年以上の歳月が流れました。かつて夢中になってアンパンマンの絵本を読んでいた子供たちは、いま、親と
なってわが子のために絵本を読んで聞かせています。
「ぼくのアンパンマンは、決してかっこいいヒーローじゃありません。自分の顔を食べさせることで、餓える人を救い
ます。顔が半分になっても、ニコニコしています」
アンパンマンの生みの親、やなせたかしさんのインタビューは、やなせさんの創り出したキャラクターに囲まれて始ま
った。
ポピュラーソングから三越の包装紙まで
漫画や絵本もお描きになれば、詩やエッセイ、ミュージカルをお創りになり、シンガーソングライターのはしりでもいらっしゃる。活動範囲がとても広いのですが、肩書きをいくつおつけしたらいいのでしょうか(笑)?
やなせさん:漫画家、絵本作家、それだけでいいですよ。いろいろな仕事を頼まれるのだけど、ぼくのほうからやりたいと言うわけではない。ぼくは血液型がAB型なので断るのが下手でね。これは自分にはできないな、と思うものでも頼まれるとつい引き受けてしまう。それで、歌もつくるし、舞台装置も手がけるし、シナリオも書く。シナリオなんて書いたことないよ、といってるのに頼みにくるんだからね(笑)。仕方がないから『シナリオの書き方』なんて本を買ってきて、それを読みながら書いたりしてね。ほんと、いい加減なんだけれど、まあ、頼むほうが悪いんだから。
NHKの「みんなのうた」という番組に登場して以来、みんなの知っている歌となった「手のひらを太陽に」(作曲・いずみたく)や、子供たちの大好きな「アンパンマンのマーチ」(作曲・三木たかし)の作詞も、やなせたかしさんが手がけたものである。
知る人ぞ知る作品のなかには、三越の包装紙のmitsukoshiという描き文字がある。
やなせさん:ぼくは高知の旧制中学を卒業してから、東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部建築学科)に進みました。昭和16(1941)年、兵隊にとられて、中国に渡りました。終戦後復員してみると、東京は焼け野原になっていました。
焼け野原の復興はめざましかった。復興の先陣を切ったのがデパートである。まもなく三越百貨店が宣伝部員を一般募集したので、やなせさんは応募してみた。
やなせさん:受験態度が生意気だ、といって一度落とされたんだけど、井上さんという高知出身の重役が、あいつは見どころがあるから合格にしてやろうといってくれたおかげで、採用されました。
その当時の三越の包装紙は、セピアカラーのマル越マークの地味なものだった。クリスマスを機に、もっと派手なデザインにしようということになり、アメリカ帰りの猪熊弦一郎画伯にデザインを依頼することになった。担当を命じられたのがやなせさんである。田園調布の猪熊画伯のもとへ依頼に行くと、画伯は快諾してくれた。
やなせさん:いやあ驚きましたよ。デザインができた、といっても、白い紙の上に紅い色紙が切って貼ってあるだけ。それも、チョイチョイっと簡単に貼ってあるので、丸めたりしてバラバラにはがれて落っこちたら大変だ、と、広げたまま捧げ持って自動車に乗って帰ったんですよ。しかも、猪熊先生、文字のところはきみが描きなさい、とおっしゃるもので、ぼくが描きました。それが、いまだに使われている包装紙《華ひらく》誕生のエピソードです。よく見るとわかるけれど、とても下手な文字なんですよ(笑)。
三越宣伝部のグラフィックデザイナーとして働いた後、やなせさんは雑誌に漫画を掲載したり、絵本を創ったり、児童向きの雑誌にイラストを描くようになる。 あるエッセイに「7歳から70歳の人までおもしろいと喜んでもらえる作品を描きたい」と書かれている。
やなせさん:あれはね、ぼくが70歳くらいのとき書いたもので、7歳の子供に本当におもしろいって思ってもらえたら、ぼくと同年輩の老人にもおもしろがってもらえるだろうと、あんな書き方をしたんだ。でもね、それからどんどん平均寿命が延びてみんな長生きするようになったから、70歳なんて老人のうちに入らない(笑)。アンパンマンのアニメなんてゼロ歳児でも喜んでくれるんだから《赤ちゃんから100歳まで》と、訂正しなくちゃいけないかな。
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やなせたかしプロフィール
1919年東京生まれ。高知県で育つ。東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部)卒業。三越のデザイナーを経て、漫画家、絵本作家となる。主な作品に「やさしいライオン」「アンパンマン・シリーズ」などがある。2003年まで30年間、月刊誌『詩とメルヘン』の編集長を務めた後、2007年より投稿詩とイラスト中心の雑誌『詩とファンタジー』を責任編集。 |
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