知遊vol.16(2011年7月5日 発行)
【知遊の人】
不器用に役者人生を生きて六〇年
若い才能を見いだし、日本を代表する俳優に育てたい
仲代達矢(俳優、無名塾主宰)
【ルポルタージュ】
ゼロからの図面を描け!
東日本大震災
・三陸沿岸の被災地医療を取材して
千田敏之(医療ジャーナリスト、『日経メディカル』編集長)
【黒田東彦の世界を見る眼】
東日本大震災からの復興
・アジアの経験に学ぶ
黒田東彦(本誌編集委員、アジア開発銀行総裁)
【一枚の絵】
木の魂に触れ、板の声を聴いた版画家
・「美尼羅牟頌板画柵」(棟方志功)
柳沢秀行(大原美術館学芸課長)
【動物行動学の視点】
躍動感に満ちたサルの世界-チンパンジーの心を探る-
今福道夫(本誌編集委員、京都大学名誉教授)
【やまだ紫の世界】
やまだ紫が放つ「ことば」について
白取千夏雄(編集者、やまだ紫・夫)
【特別寄稿】
江戸の知恵と、昭和の底力
・笑いとナンセンスで悪に立ち向かった芸人魂
金子成人(脚本家)
【囲碁と読書は友だち】
四〇〇年の歳月を超えて黄龍士さんと向き合う
マイケル・レドモンド(プロ棋士、日本棋院九段)
【中国古典に学ぶ】
天を楽しみ命を知る
・『易経』
守屋 洋(中国文学者)
【ここが違う菌の常識】
一人じゃない、菌がいる
監修・青木 皐/文と絵・高田美果
【ヒューマンドキュメント・医療機器を開発した人たち】第16回
左手は開腹手術と同じように使い、右手は腹腔鏡手術の操作を行う
ハンドアシスト法を用いた腹腔鏡手術を普及させた
「ラップディスク 開発物語」 PART2
福山健
特集記事
今号は、「知遊の人」に仲代達矢さんをお招きしました。インタビューは、東京・世田谷の「無名塾」で行われ、仲代さんはいつもの通り演出の椅子に座って、穏やかにお答えくださいました。その一節をお届けします。

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今号は、「知遊の人」に仲代達矢さんをお招きしました。インタビューは、東京・世田谷の「無名塾」で行われ、仲代さんはいつもの通り演出の椅子に座って、穏やかにお答えくださいました。その一節をお届けします。
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愛妻の発病、そして旅立ち
――無名塾がスタートしてから20年目、ご自宅の隣に新しい稽古場「仲代劇堂」をおつくりになりました。そのオープンの日、宮崎さんは「ここで私たちのお葬式をしたい」と、スピーチをなさったとか。その2年後にお亡くなりになったんですね。
仲代劇堂ができた翌年、仲代夫妻がプロデュースした能登演劇堂(石川県中島町、いまの七尾市。無名塾の地方公演はこの演劇堂からスタートする)が完成、初代名誉館長として仲代さんが就任し、柿落としに無名塾の「ソルネス」(イプセン作)が上演された。舞台も映像関係の仕事も順調に進み、夫妻ともに忙しかった1995(平成7)年11月13日深夜、仲代さんは、かかってきた一本の電話に打ちのめされた。「奥様から固く口止めされているのですが……」
宮崎さんがすい臓癌にかかっており、できるだけ早く手術をしたほうがいい、とすすめる医師からの電話であった。
ほどなく手術。大成功だった、と聞いて仲代さんは一安心したが、引き続いての「これで、あと2年はだいじょうぶ」という医師の言葉に目の前が真っ暗になった。宮崎さんは術後、驚くほどの気力で回復して退院。お正月を家族とともに過ごした。いつもと変わらない明るいその笑顔に、仲代さんは「彼女なら、奇跡を起こせるのではないか」と、かすかな希望を持った。若いころから続けている早朝のランニングは、みずからの健康やトレーニングのためというよりも、「恭子が治りますように」と願かけをする、祈りの時間となった。
ある日、無名塾第2期生の役所広司さんが、故郷長崎の大きなスイカをぶらさげて訪ねてきた。彼の主演した「Shall weダンス?」が公開されて、大評判になっていたころである。どんなに売れっ子になっても少しもそれを感じさせず、彼はいつもふらりと姿を現した。身内以外で宮崎さんが会った最後の見舞い客であった。
「今年の主演男優賞は総ナメよ」と宮崎さんはご機嫌で予言していたが、予言は的中した。
仲代劇堂でとり行われた宮崎さんの葬儀で役所さんは、「宮崎さんが育てたかった“本格的な俳優“ ”品のある芸”をめざして修業していきます」と、誓いの言葉を述べた。無名塾をつくったときの、「日本を代表する俳優を育てたい」という二人の夢を、彼は実現してくれた。
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たくさんの「子供たち」に囲まれて
――宮崎さんが亡くなられて15年、稽古場には大きな写真が飾られ、仲代さんの椅子に並べて宮崎さんのディレクターズ・チェアが置かれています。いまも変わらず見守ってくださっているのですね。
先に、神様がもしいらっしゃるとすれば、俳優座養成所に入って以後はずっと《いい目》を見せていただいているようだ、という仲代さんの言葉を紹介したが、お話をずっとうかがってきて、その《いい目》を見せてくれた福の神は宮崎恭子さんだった!
という気がする。
仲代さんはインタビューのなかで、無名塾の教え子たちのことを「塾生」とか「門人」とかいっておられたが、いちばん多かったのは「子供」という言葉だった。
役所広司さんはもう50歳を超えているはずだが、そんな彼を評するときも「あの子は……」となる。塾生たちが何歳になっても、みんな仲代ファミリーの「子供」なのだろう。
取材を終えて仲代劇堂を退去するとき、塾生たちが四人見送ってくださった。お辞儀の仕方、私たちの脱いだスリッパを片づけるしぐさ、背筋を伸ばした立ち姿も美しい。
ファミリーの「お父さん」「お母さん」の文字どおりの《躾》の良さが感じられる。
角を曲がる寸前に振り返ると、夕暮れの薄明かりのなかに、四つのシルエットがまだ、動かずに、あった。
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仲代達矢プロフィール
1932年東京都生まれ。本名・仲代元久。52年、俳優座演劇研究所付属俳優養成所入所。舞台「幽霊」のオスワル役でデビュー。
「どん底」「リチャード三世」「ソルネス」などの舞台で、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞、紀伊國屋演劇賞ほか数々の賞を受賞。
また、小林正樹監督の「黒い河」「人間の条件」「切腹」、黒澤明監督の「用心棒」「椿三十郎」「影武者」「乱」などの日本を代表する映画作品に出演。
出演映画が米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ、ベネチア、ベルリン)のすべてで受賞。テレビドラマでも「新平家物語」「大地の子」など出演作多数。
75年から私塾「無名塾」を舞台活動の中心にしながら、新人俳優の育成に力を注ぎ、役所広司、若村麻由美ら多くの俳優を送り出している。96年紫綬褒章受賞。2007年文化功労者に選ばれた。 |
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