仲代 ― プロ野球選手にも、王道を通ってこなかった例外が……? 野村 ― はい、ここにおります
仲代 ― 本日は野村さんをこうして無名塾の稽古場にお迎えできて、とても嬉しいです。じつはぼく、柄にもなくこの『知遊』という雑誌の編集委員でして、ぜひ対談のゲストとして野村さんにご登場いただきたいと、かねがね願っておりました。
野村 ― いやいや、こちらこそお招きいただきまして。
仲代 ― 無名塾の公演のたびに野村さんがお花を贈ってくださるので、本当にありがたいです。毎度ながら小むずかしい、しんどい芝居をお目にかけまして……。
野村 ― 俳優さんのなにがすごいって、とてつもない長ゼリフが1人分の脳みそによく入るものだなあと。昨年の「授業」なんてとくに膨大なセリフの数で、圧倒されてしまいました。(※「授業」=ウージーヌ・イヨネスコ作の不条理劇。2013年に無名塾・仲代劇堂にて上演)
仲代 ― でも近ごろはきついですよ。昔だったら1冊分の台本を覚えるのにかかる日数は10日くらいでしたが、いまや半年ですよ! ぼくのほうこそ長年、野村さんに圧倒されっぱなしです。最下位のチームをことごとく上位に押し上げていかれた名監督で、なんと鮮やかな手腕だろう、って。
野村 ― ありがたくも、それで「野村再生工場」なんて異名をいただきましてねえ。ぼくも貧乏性といいますか、どうも最下位チームにばかりご縁があって。南海ホークスを皮切りに、ヤクルトスワローズ、阪神タイガース、そして東北楽天ゴールデンイーグルス。見事、最下位という点で共通しています。最下位になると野村を監督に、っていう野球協定でもあるのかと思うくらいで(笑)。
仲代 ― でも、いずれも受けて立たれました。野村さんのなかに「最下位ということは、あとは上昇するだけだな」というお気持ちもあったのでしょうか。
野村 ― 考えようによっては、常勝チームと違って転落の心配がないから、自分が監督してまた最下位になったとしても大恥にはなりませんよね。それよりなにより、球団が監督要請をするときというのは、幹部が会議を重ね、練って練ってようやく「来年はこの人に託そう」と決定するわけです。そのうえでぼくのところに来てくれるのですから、断る理由はありません。どの球団の要請も、「ぼくでよければ」という気持ちですぐに受諾しましたよ。
仲代 ― 貧乏性なんておっしゃいましたが、上をめざすチームにばかり野村さんはご縁がおありで、しかも各チームをまさに「再生」させてこられたことには、深い意義があるとぼくは思います。個人的にぼくは、子供のころの境遇が野村さんに近いような気がしているんですよ。以前お会いしたときにも少しお話をさせていただいて、そんなふうに感じました。
野村 ― ぼくは日本海に面した京都の田舎町で育ちました。母子家庭で、つねに家計は苦しかった。
仲代 ― ぼくも同じです。早くに父を亡くしました。
野村 ― 父は、ぼくが3歳のときに日中戦争で戦死しました。母の苦労する姿ばかり見て育ちましたから、大人になったらお金を稼いで母を助けなければと、子供心に誓ったものです。「どんな仕事をすれば金持ちになれるのかな」と考え始めた中学1年のとき、2つ年下の美空ひばりさんが電撃的にデビューされました。
仲代 ― そうそう! ちょうどそのころでしたね。
野村 ― ひばりさんはあっというまに国民的スターになられて。「よし、おれも歌手になろう!」と決意し、さっそく音楽部に入ったんですよ。
仲代 ― 音楽部ですか! 響きのいいお声ですもんね、野村さん。
野村 ― いえいえ、とんでもない。実際、1年でやめてしまいました。いくら頑張っても音楽の成績はいっこうによくならず、こりゃだめだなと。歌手は諦め、つぎなる金持ちへの道を模索しました。テレビなんてない時代で、楽しみといえば映画です。映画館に日参しては主演俳優のセリフや動きをちょっとだけ覚えて、家に帰ると鏡の前でまねしてみたりしてね。
仲代 ― ほお~、立派な映画少年じゃないですか。
野村 ― 映画少年は鏡に映ったおのれの顔をまじまじと見て、はたとわれに返るわけです。「この顔じゃアカンわ」と。俳優イコール男前という固定観念がありましたからね。当時のぼくが渥美清さんや藤山寛美さんを知っていたら、あのまま映画界を志していたでしょうねえ(笑)。
仲代 ― 野村さんが俳優を断念されてよかったですよ。球界のためにも、われわれ俳優のためにも(笑)。強大なライバルになるところでした。
野村 ― 残念です(笑)。
仲代 ― ぼくはこれまで、プロ野球で通用するような選手というのは、小学生でリトルリーグに入って中学で早くも注目され高校で甲子園出場、という王道を歩んできた人ばかりなのだろうと思っていました。歌手や俳優を志したこともあるという野村さんのお話を聞くかぎり、かならずしもそうとはかぎらないのですね。
野村 ― いやあ、やはり小さいころから野球を始めて鍛え抜かれた子が長じてプロの一軍選手に、というパターンがほとんどだろうと思いますよ。
仲代 ― でも、なかには例外が……。
野村 ― はい、ここにおります(笑)。

仲代 ― いまやメジャーリーガーの田中マー君について 野村 ― 最初から、グラウンドで光るものがありました
仲代 ― 「ハングリー社会」という言葉が出ましたよね。最近の若い子からは、どうもそのハングリー精神が感じられないんですよ。ぼくは無名塾創立前、俳優座という劇団に27年在籍していたのですが、そこにはいい先輩俳優が100人もいました。そのなかで自分が目立つにはどうしたらいいか、懸命に考えたものです。鶴岡監督の視線を意識しながら練習に励まれた野村さんのお気持ち、よくわかるんですよ。「おれがこう演じたらみんなはどう思うだろう」と、つねに想像力や推察力を総動員していました。人間が3人以上集まれば1つの組織になり、チームになりますよね。そこに身を置く自分という存在、自分の言動はどう思われているのかを「忖度(そんたく)する」という意識が、いまの子には乏しいような気がするんです。
野村 ― 平和ボケともいわれていますよね。戦前、戦中、戦後という時代に育ち、ひどい食糧難も経験したわれわれには、平和でボーッとする余裕などなかったではないですか。
仲代 ― いまの「金がないから食えない」とはわけが違いますからね。本当に米粒1つ食えなかった。だから野村さんもぼくも、家族や自分が食うためにどうにかしなきゃ、他人が10倍努力するなら自分は100倍やらなきゃ、と発奮したわけです。それがわれわれ世代の青春でしたよね。結局、境遇の違いが大きいのでしょうか。無名塾にも「さとり世代」「ゆとり世代」と呼ばれる子たちが入ってきていまして、確かにどこか淡泊なんです。うちは月謝ゼロなのですが、塾生募集の応募用紙を見ると「志望動機 タダだから」なんてあっけらかんと書いてあって、驚かされますよ。
野村 ― へえ~(笑)。それはまた率直というか素直というか……。
仲代 ― 「尊敬する俳優 緒形拳さん」とかね。ぼくだったら嘘でも「この素晴らしい劇団で尊敬する仲代さんのもと演技を学びたいです」とかって書くけどなあ、と思いましたよ(笑)。生きることに対してちょっとのんびりしているといいますか、目標を定めてそこに必死で食らいついていくっていう感じではないんですね。ただ、俳優の場合は野球選手よりも目標を立てにくい、という面はあると思うんです。
野村 ― と、おっしゃいますと?
仲代 ― 野球というのは、数字で明確な結果が出るものでしょう。打率は何割何分何厘、ホームラン何十本、って。俳優は数字で価値をはかれない仕事なんですよ。
野村 ― ああ、なるほど。それはわかりにくいといえばわかりにくいかもしれませんね。
仲代 ― 逆に野球選手は成績が如実に出てしまいますから、わかりやすいと同時に苛酷ですよね。でも、だからこそ若い子でも目標に食らいつき、24勝無敗なんていう夢みたいな数字を現実のものにできたのでしょう。
野村 ― 昨シーズンのマー君ですね。まさかあれほど勝つとは……。
仲代 ― いまやメジャーリーガーの田中将大投手ですが、プロ野球選手としては野村さんが監督されていたころの楽天で第一歩を踏み出しました。やはり、入団当時から光るものがあったのでしょうか。
野村 ― ありました。その光を具体的に説明するのはむずかしいのですが、昨今よくいわれる「オーラ」というものですかね。まだ18歳の少年でしたが、彼がグラウンドに現れると自然に目がそちらへいくんですね。
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